池波正太郎「あるシネマディクトの旅」3
〔殺意の瞬間〕では、いまは亡きジャン・ギャバンが、中央市場近くのレストランの主
人(兼料理長)を演じ、コキールやパイをつくる手さばきも実に堂に入ったものだった。
いまも、レアール名物の一つだという〔ピエ・ド・コション〕などという店も残っている。
酒場〔B・O・F〕も、この〔ピエ・ド・コション〕の近くにある。
〔B・O・F〕とは〔ボン・ウブリエ・フランス〕の略称なのだそうな。
吉田さんに意味を尋いたら、
「まあ、忘れられたる佳きフランス...というような意味でしょうな」と、教えてくれた。
亭主のセトル・ジャンは、七十二さ歳の大柄な老人だった。
「この居酒屋は、もう二百年も前から、この場所にあって、わしがやるようになってからでも五十年になる」と、セトル・ジャンはいった。
二百年も前というと、日本の安永年間で、私が書いている〔鬼平犯科帳〕の主人公・
長谷川平蔵が生きていたころだ。
フランスでは、ルイ十六世が即位したり、イギリスと共にスペインと戦ったりしていた。
池波正太郎「あるシネマディクトの旅」P15-17