藤井宗哲・川口宗清尼「池波正太郎の江戸料理を創る」
蛤の小鍋立て
「旦那、旦那。こっちですよ、こっちですよ」
入れ込みの衝立障子の向こうから、一本眉の客が手を振っているではないか。
忠吾は、わけもなくうれしくなり、
「このところ、見えませんでしたな。どうかなされたのか?」
「年をとりますとな、厚さも寒さも身にこたえます。ま、おひとつ」
「これは、どうも…相すまぬ」
(中略)
「なんの。私はな、まことに失礼ながら、旦那のお顔を見ていると、何かこう、ここ
ろたのしくなってまいります」
「酒の肴になりますかな、こんな顔が・・・」
「なりますとも、なりますとも」
「は、はは・・・」
「うふ、うふ・・・」
蛤と豆腐と葱の小鍋立てが運ばれてきた。
(『鬼平犯科帳』ー「一本眉」より)
「池波正太郎の江戸料理を創る」p16.17 1999年4月22日マガジンハウス刊