池波正太郎ほか「剣客商売読本」
小鍋だて
いま、私が小説新潮へ連載をしている〔剣客商売〕の主人公で老観客の秋山小兵衛は、これまでに出合った何人もの人びとがモデルになっているし、やがては、おのれのことをも書きふくめることになったわけだが、その風貌は、旧知の歌舞伎俳優・中村又五郎氏から採った。
つぎに、一つのヒントをあたえてくれたのは、むかし、私が株式仲買店ではたらいていたころ、大変に可愛がってもらった三井老人だった。
二月に入ったばかりの寒い夜、私は深川で用事をすませた後に、おもいついて三井さん
の家を訪ねた。
三井さんは、お客のところから帰って来たばかりで、長火鉢の前へ坐り、晩酌をやって
いた。
長火鉢に、底の浅い小さな土鍋がかかってい、三井さんは浅蜊のむき身と白菜を煮なが
ら、飲んでいる。
この夜、はじめて私は小鍋だてを見たのだった。
底の浅い小鍋へ出汁を張り。浅蜊と白菜をざっと煮ては、小皿へ取り、柚子をかけて
食べる。
小鍋ゆえ、火の通りも早く、つぎ足す出汁もたちまちに熱くなる。
これが小鍋だてのよいところだ。
「小鍋だてはねえ、二種類か、せいぜい三種類。あんまり、ごたごた入れたらどう
しようもない」
と、三井さんはいった。
「剣客商売読本」P22-24 平成十五年九月二十日 新潮社文庫刊