澁澤龍彦「フローラ逍遥」林檎
季節は秋だった
思わずスメタナの旋律が口をついて出るほど、気持ちのよい絶好のドライブ日和
で、私たちは道すがらボヘミアの自然を満喫したものだ。
小川がながれ、白壁の農家のかたわらには花々が咲き競っている。
コスモス、鶏頭、立葵、サルビア、カンナ、ダリア、薔薇、百日草、ひまわり、
おしろい花...こう書きならべてみると、緯度はずっと北で、樺太と
ほぼ同じであるのに、花の種類は日本の秋とそれほど変わらない。
ただ空気が乾燥しているためか、花々がじつに鮮明な色と輪郭をしているのが
印象的であった。
車を降りて、私たちはそのあたりを散策したものであるが、いまでも記憶にはっきり残
っているのは、農家の庭さきに、赤い小さな実をいっぱいつけた林檎の樹が何本も
植わっていたことだ。道に落ちている実もある。
子どもの握りこぶしほどの大きさの、その落ちた林檎を私はひろって、かじってみた。
酸味が口のなかにひろがって、おいしかった。
林檎の実をひろって食ったことなんか、日本でも経験したことはなく、このときが
初めてである。
澁澤龍彦「フローラ逍遥」P190-191 1987年5月15日 平凡社刊