池波正太郎「ル・パスタン」
コーヒー
小学校四年生のとき、私は、突然、父方の伯父伯母の家に引き取られることになった。
父母が離婚してから、私は母の実家で暮らしていたのだが、何やら大人たちの話し合い
がついて、谷中の伯父の家へ移ることになった。
もっとも三カ月で、母の許へ帰って来た。
そうした事情を、伯父は私に知らせずに、担任の先生へ、くわしくはなしたらしい。
先生は名を、立子山恒長といい、端正・温厚な人柄だった。
私が立子山先生の生徒となったのは一年きりだったが、その年までの成績表の〔操行〕
は全部乙は丙だったのが、立子山先生のときは、すべて甲になった。
或日、先生は、私を図画室へよび、出前のカレー・ライスを御馳走して下すったのに、
びっくりしていると、
「君はお父さんやお母さんと別れて暮らしているそうだね。何か、つらいことはない
か?何でもいいから私の相談しなさい」
やさしく。そういって下すった。
さて、このほど、先生の甥御さんで、詩人の長田弘さんから〔食卓一期一会〕というユ
ニークな詩集が送られてきて、伯父の立子山先生についても、ふれてあるのが、なつか
しかった。
それによると、先生は食べ歩きが大好きだったらしい。
そういえば、むかしも洋食屋からカツレツだのビフテキだのを出前させ、ナイフとフォ
ークをぴらぴらさせながらめしあがっている先生を見ることは、めずらしくなかったも
のだ。
立子山先生は、甥の長田さんに、こんなことをいったそうだ。
「人は、独りでコーヒー店へ行き、一杯のコーヒーを飲む時間を一日のうちにもたなけ
れならない。どうでもいいようなことだけれどね」
この言葉の意味は深い。
そして先生は八十歳をこえてからも、野火止の幼稚園(晩年は園長をしておられた)か
ら自転車に乗り、日に一度、かならず街へコーヒーをのみに行かれたという。
長田さんの本は、私が知らなかった先生の風貌を見せてくれた。
「週刊文春」一九八七年十月二十二日号